第1章 工藤伸治のセキュリティ事件簿番外編 箱崎早希と老いた迷宮

  • 2016/5/30
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2016/05/30

その机の上に置かれた、「センセイの鞄」がなによりも真実を語っていた。ちょっとしたほころびから全てが露見する。あの事件もそうだった。

「センセイの鞄」は、川上弘美という小説家の短編連作だ。おおざっぱにいうと、老いて退職したセンセイと昔の教え子の女が呑み屋で出会って、恋に落ちる話だ。ミラノで再会するようなドラマチックなことはなにも起きない。当たり前の日常が淡々と続く中で、ゆっくりとふたりの関係が熟成してゆく。

オレは恋愛小説が苦手だ。正直言ってなにがおもしろいのかよくわからない。食わず嫌いってわけじゃない。いくつか薦められて読んだこともあるが、全部ダメだった。

「センセイの鞄」だけは例外的に読めたし、感動した。おかげで全ての意味がわかった。

オレの名前は、工藤伸治。サイバーセキュリティに関するコンサルタント業を営んでいる。そう言うと、カッコよくて儲かりそうに聞こえるが、やっているのはなんでも屋みたいなものだし、その上、フリーランスで不安定きわまりない。

主に企業でサイバーセキュリティがらみのトラブルの手助けが仕事だ。なぜ、まっとうなサイバーセキュリティ専門の会社や警察に相談しないかというと、それなりの事情があるからだ。まっとうなところに相談したら、まっとうなことを言われるし、たいていは公表するハメになる。でも、隠したいことだってある。そういう時には、まっとうなことを言わないオレの出番だ。だからいくら活躍しても話題にはならないし、たいして儲からない商売だが、オレは嫌いじゃない。

陰鬱(いんうつ)な小雨の降る午後に、いつもオレに仕事を回してくれる広告代理店の沢田というお調子者が、ヘムコシステムからの依頼メールを転送してきた。すぐに頭に浮かんで来たのは、システム風紀部長箱崎早希の姿だ。高身長と皮肉のキレは一度会ったら忘れない。早希と初めて会った前の事件では、社内の問題点についてたっぷりレクチャーしてもらった。一番印象に残ったのは社員の生真面目さだった。

また、あいつかと思ったものの、口角が知らずに上がる。生意気な女は嫌いじゃない。

「先方の工藤さんに対する評価が高いんで、私のような者がご一緒するよりおひとりで行かれた方がスムーズに進むと思います」

沢田は担当しているコンベンションが近いとかで忙しいそうで、なんてぬかしやがったおかげでオレひとりでいくハメになった。なぜ、広告代理店がサイバーセキュリティ業務の仲介をするのか未だに納得できないが、なんでもまとめて面倒みてもらいたい企業が日本には多いんだろう。

傘をさすのは面倒なので、帽子を被って出かけた。ヘムコシステムの受付で用件を伝えると、いつものように会議室に通され、しばらく待つと箱崎早希がやってきた。百八十センチのラテン系美人。黙っていれば、男が群がってくるだろう。

「今日はおひとりですか」

入るなりそういうと、挨拶もなしにどっかと椅子に腰掛け、資料をテーブルの上に置いた。

「ごぶさたしてます」

いちおう客だから下手に出ると、早希はあらあらとおおげさに驚いて見せた。

「工藤さんから、そんなきちんとしたご挨拶をいただけるなんて雹(ひょう)でも降るのかしら」

「減らず口はそれくらいにして本題に入ってくれ」

オレがため息まじりで言うと、早希は満面の笑みを浮かべた。

「いつも調子が出てきましたね。よかったです。インフルエンザ脳症にでもかかったのかと思いました。そうそう。事件! 事件が問題なんです。明らかに不自然です」

箱崎早希の説明によると事件の流れはこうだ。昨日、「これから御社の顧客管理統合システムから取引情報を含めた顧客データを盗み出す」という犯行予告がメールで送りつけられた。そのメールによれば、顧客管理統合システムの売上台帳にはインターネット経由で侵入可能な脆弱性が存在しており、それを利用してデータを盗むのだという。

「でもね。脆弱性はすぐに見つかったんです。脆弱性そのものの修正は簡単だったので、すぐにふさぎました。ただ影響範囲が大きいので一週間ほど様子を見ることにしました。これで一件落着です。合わせてこの機会に顧客管理統合システムの全面見直しも視野に入れた検討を開始しています」

オレは首をひねった。どういうことだ? 問題は解決してる。

「なぜオレを呼んだ? もう終わってるじゃないか」

オレの言葉に早希は肩をすくめてみせた。

「工藤さんらしくもない。人のあら探しや揚げ足取りは得意だとうかがっていたんですが……」

「なにを言いたいんだ?」

「犯行予告までして脆弱性を教えてくれた親切な犯人はなにをしたかったんでしょう? 本当に犯行におよぶつもりなら予告したら対策することくらいわかるはずです」

「まあ、そうだな。確かにおかしい」

「この事件は単純な脅迫や愉快犯ではない可能性もあると私は考え、システム風紀部、総務、人事の合同で秘密裏に調査を行うことにしました」

つまり社内に犯人もしくは手助けしたヤツがいると考えているわけだ。話を聞く限りでは、そう考えたほうが自然だ。

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